375年 |
この頃、大王クラスの大形前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に移り、更に巨大化する。人物埴輪が現れる。 |
391年 |
倭が百済と新羅を破り臣民とする |
393年 |
倭が新羅の王都を包囲する。 |
397年 |
百済が倭国に阿?王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ。 |
399年 |
高句麗を裏切り倭と通じる。 |
400年 |
倭が新羅の王都を占領していた。高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した。 |
402年 |
新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。 |
404年 |
倭軍、もとの帯方郡の地域に出兵し、高句麗軍に撃退される。(広開土王碑) |
405年 |
倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により海中の島で待機して、のちに百済王として即位する。 |
413年 |
倭国、東晋に朝貢する。(東晋・義煕9、『晋書』安帝紀、『太平御覧』) |
416年 |
416年、允恭天皇5年7月、地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。玉田は武内宿禰の墓(御所市宮山古墳か)に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。 これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させたのである。この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻したとみられる。 |
421年 |
『高祖永初二年、詔曰「倭讃萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」』(宋書倭國伝) |
430年 |
宋 讃?1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀) |
436年 |
元嘉十三年讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(『宋書』倭国伝) |
438年 |
(元嘉15年)- これより先、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、珍宋に朝貢し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『倭国』倭国伝)4月、宋の文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)珍はまた倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍を求め、許される。(『宋書』倭国伝) |
440年 |
440-450年 - 千葉県市原市の養老川下流域の北岸台地上の稲荷台1号墳で出土した「王賜銘」鉄剣が房総の王に授けられる。 |
451年 |
宋 済 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝) |
460年 |
宋 済? 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。 |
462年 |
宋 興 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝) |
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埼玉県行田市稲荷山古墳出土「辛亥年七月中」の干支銘を持つ金錯銘鉄剣が製作される。 |
477年 |
宋 興(武) 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝) |
478年 |
宋 武 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて) |
479年 |
南斉 武 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝) |
502年 |
粱 武 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀) |
503年 |
武寧王、男弟王(雄略大王?、継体大王?)へ鏡を送る |
506年 |
蘇我の稲目生誕 |
507年 |
2月?、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。 |
509年 |
欽明生誕 |
511年 |
10月?、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。 |
518年 |
3月?、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。 |
521年 |
仇衡王即位⑬⑯ |
522年 |
仇衡王結婚 |
526年 |
9月?、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。 |
527年 |
磐井の乱 |
528年 |
磐井の乱終息 |
529年 |
529年4月(継体天皇23年)に、仇衡王が来日 |
531年 |
531年3月10日継体崩、2225 |
539年 |
539年(宣化天皇4年12月5日)に即位し欽明天皇となった。大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣とした。 |
540年 |
540年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。 |
541年 |
541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利。 |
549年 |
562年(欽明天皇23年)には、新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。同年高句麗にも軍を送っている(『三国史記』では554年に似た記述が存在する)。 |
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552年には平壌と漢城を放棄(『三国史記』によれば538年) |
554年 |
554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。 |
562年 |
562年に任那を滅ぼしてしまう。 |
571年 |
欽明天皇崩(63) |
600年 |
開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩?彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。 |
607年 |
大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。 |
608年 |
翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。 |
628年 |
推古天皇事馬子及び厩戸皇子崩・・・古事記此処まで |