インターネット文庫・平和への考察

中国の年表

東晋、宋 ━━━前秦━━━後秦━━━前燕・後燕・南燕・北燕━━━北魏━━━

350年 3月,の族長苻洪は初め前趙の劉淵らに従っていたが、前趙が後趙に滅ぼされると後趙に従った。しかし後趙の石虎の死後に冉閔の反乱が起きると石遵の配下から離れて自立し、長安の復帰を目論むがに石虎の旧臣麻秋に毒殺された。
351年 1月,跡を継いだ3男の苻健は東晋に服属したが、当時長安で東晋の雍州刺史を自称して割拠していた杜洪を破って西進し、東晋から独立して天王・大単于を称して皇始と建元し、長安を首都と定めて前秦を建国。
352年 東晋の書家王羲之が曲水の宴を蘭亭で催し『蘭亭序』を書く。
352年 352年1月、苻健は皇帝に即位したものの当時の前秦はまだ小国。
北伐した殷浩は許昌に至るも武将張遇の反乱により進軍を止められ、姚襄の軍に大敗し、責任を問われて流罪にされ、桓温は殷浩の軍権も掌握するに至った。
354年 2月、東晋の征西大将軍桓温の北伐を受けて苦戦するが6月に撃退し、これを機に陝西一帯に勢力を張るようになった。以後、前秦は後趙滅亡後の華北を鮮卑慕容部の建国した前燕と東西を二分する勢力へと成長した。
355年 6月、苻健の死により3男の苻生が第2代皇帝となった
356年 前燕が中原に進出する。これにより高句麗が再起する。
356年 桓温は湖北から長安に攻め入り、更に東進して洛陽を落として帝陵を修復して凱旋した。これらの武勲により桓温の権力と権威は東晋において揺るぎないものとなる。一方で桓温は土断の実施など内政改革にも実力を発揮した。
357年 5月羌族の族長姚襄・姚萇兄弟と戦い、姚襄を殺害して姚萇を服属させるなど勢力を拡大した。
6月、苻生は残忍・残虐な行為が多かったので民心は離反し、苻健の甥で自らの従兄弟である苻堅のクーデターによりに排除され、苻堅が第3代皇帝として即位した。第3代皇帝として即位した苻堅は大秦天王と称した。苻堅は明敏で博学多才な人物であり、漢人宰相の王猛を重用して内政の充実を図り、初代からの方針である重商主義から重農主義に転換して豪商を抑え、長年安や関中の感慨施設の復興や匈奴・鮮卑等の移民を展開して農業基盤を整備した。一方で官僚機構の整備、法制の制定に努めて中央集権化を図った。
360年 360年代半ば、まで前秦は内政の充実や周辺諸国の外圧、さらに匈奴や羌の反乱や皇族間の内紛が相次いで勢力拡大は進まなかった。
365年 華北東部に進出した鮮卑の前燕の慕容恪により洛陽が奪われたため、桓温は再び北伐を開始したが慕容垂の前に大敗し、辛うじて徐州に帰還するが、この大敗で前燕や前秦にかえって南侵されるようになり、桓温の権威と権力は大きく傷ついた。
368年 前秦が前燕を滅ぼし華北を統一
368年まで、全て片付けると対外政策に進んで外征を行なう。
370年 11月、前燕を滅ぼす。
371年 4月、前仇池を滅ぼして遼東・中原を獲得した。
373年 桓温は失意の内に世を去った。桓温の死後、政権を握った謝安は王導の再来とも言われるほど寛容な政策と巧みな政治バランスによる政権運営をこころがけた。桓温没後の桓氏に対しては桓轄と桓沖ら一族に荊州の軍権を与える事で内乱を避けた。一方で北府の総帥には一族の謝玄を登用して政軍のバランスを保つという老練な対応をとった。
375年 華北統一に大きく貢献し、東晋遠征を反対していた王猛が死去した
376年 12月、拓跋部が五胡十六国時代に代を建てた8主60余年続いたが、拓跋什翼?の時に前秦の苻堅に滅ぼされた。この時、拓跋什翼?の孫の拓跋珪は母と共に母の出身部の賀蘭部に逃れ、さらに前秦支配下で代国東部を統治していた独孤部の劉庫仁の下に身を寄せた。
376年 華北では前秦の苻堅により統一政権が樹立され、東晋では前秦の南下が脅威となっていた。
376年 8月には前涼を滅ぼして涼州を平定、12月には代を滅ぼした。これにより、前秦は五胡十六国時代で唯一となる華北統一を達成した。この前秦の勢威に高句麗・新羅など朝鮮半島の諸王朝は朝貢して服属し、華北の社会は安定、人口は2300万人に達して前秦は全盛期を迎えた。
378年 2月、天下統一を目指す苻堅は王猛の意見を聞き入れず、庶長子苻丕に命じて東晋領の襄陽を攻撃した。
379年 2月、東晋の謝玄の反撃を受けて建康攻撃に失敗した。
383年 8月、苻堅は南北統一を目指して群臣の反対を押し切り、総勢100万(90万とも)と号する東晋討伐の軍を起こした。前秦軍は苻融の軍が寿春を落とすなど優勢だったが、漢族将軍でかつての東晋の梁州刺史朱序が「堅、敗れたり!」と叫んで苻堅を裏切り、さらに東晋軍の謝玄・謝石らに動揺した隙を突かれて大敗した。苻堅は流れ矢に当たって負傷しながらも弟の苻融と共に鮮卑族の慕容垂の軍勢によって守られて敗走したが、苻融は戦死した(淝水の戦い)。
383年 10月、前秦が淝水の戦いで東晋に大敗を喫して弱体化する中、384年10月に劉庫仁が死去すると後継者争いが起こり、拓跋珪はまた賀蘭部に逃れたが、前秦崩壊による諸民族自立の波は北方にも波及していた。
383年12月、長安に帰還したが、この敗戦による前秦の支配力の動揺は激しく、前燕皇族であった慕容泓と慕容沖は華陰(現在の陝西省華陰市)で関中の鮮卑を糾合して長安に迫った。苻堅は慕容沖を破り、西燕を建国した慕容泓は6月に家臣に暗殺されるなどしてひとまずは沈静化した。
384年 1月、慕容垂は現在の河南省で自立して後燕を建国。
384年 4月、慕容泓に敗北して罪に問われる事を恐れた姚萇が馬牧(現在の陝西省興平市)に逃亡して自立して後秦を建国した苻堅はこれらの勢力を鎮定するために各地に軍を派遣したが前秦軍は各地で敗北した。またこの混乱で長安の経済は破壊され深刻な食糧不足に陥った。
385年 この勝利により謝安は以後も東晋を運営していくが東晋皇帝の孝武帝が成長し、その弟の司馬道子が次第に謝安を政敵として対立したため、晩年の謝安政権は思うように運営がままならなかった。そして、謝安は死去した。
385年 385年5月、苻堅は慕容沖の西燕の勢力拡大を恐れて長安を脱出し、五将山(現在の陝西省岐山県西北方)に逃れた。
385年 385年7月、羌族の族長で後秦の姚萇に捕縛されて新平に連行されて禅譲を迫られた。
385年 385年8月、苻堅は拒絶した為、姚萇により殺害され前秦は事実上滅亡した。
386年   1月、拓跋珪は賀蘭部の推戴を受けて牛川(現在の内蒙古自治区興和県)で代王に即位して登国と建元し、4月には魏王と改称した。これが北魏の建国である。だが建国当初の北魏の支配圏は盛楽(現在の内蒙古自治区和林格爾県)を中心とした限定的な地域だけで、かつての代よりその勢力は弱小な小国に過ぎなかった。
386年 10月、苻堅の死後、その庶長子で慕容垂の後燕と戦っていた長楽公苻丕は、後燕に敗れて長安に逃れる途上で父帝の死去を知り晋陽で帝位を継いだが、苻堅の死去により、分裂がさらに進んで前秦の将軍で西域の平定を任されていた呂光が後涼。乞伏国仁が西秦。代の皇族の生き残りである拓跋珪が北魏を建国。前秦の領域は河東方面に限定されるまでになった。王猛の遺児王永の助力を得て一時は勢力を拡大するが、後燕と西燕に挟まれて苦戦を強いられ、西燕の慕容永に敗れて東垣(現在の河南省新安県)に逃れている所を東晋軍の攻撃を受けて殺された。
386年 11月、現在の甘粛省東部にいた一族の苻登はに枹罕で第5代皇帝に即位し、後秦と戦い一時的に攻勢に転じた。
387年 7月、北魏は当初、後燕と同盟を結び連携して劉庫仁の後継者劉顕を破る。
391年 12月、代の旧領西部を統治していた劉衛辰を滅ぼす。さらに前後して柔然や高車などにも攻勢に出てオルドスからモンゴルに至る地域の大半を支配下に置いた。だがこのような急速な勢力拡大は後燕と衝突する事になり、北魏は、後燕と対立していた西燕と同盟を結んで敵対した。
394年 8月、後燕は西燕を滅ぼす。
395年 5月、後燕皇帝慕容垂は皇太子慕容宝に10万の軍を預けて北魏を攻撃させオルドスまで後退させた。
395年 11月、現在の内蒙古自治区涼城県の参合陂の戦いで後燕軍を壊滅させて、後燕との力関係を逆転させた。
396年 396年、謝安の死後、最初は兄の孝武帝も親政していたのだが、酒色に溺れて政務に関心を示さなくなったため、実権は司馬道子が握った。ところがこの道子も安楽の生活に溺れて権力を私物化したため、東晋は内部から腐敗と崩壊の道を歩みだした。そして張貴人によって孝武帝が暗殺されてしまうという事件が起きた。
3月、慕容垂の反攻を受けて平城を失い敗退する
4月、慕容垂が急病により陣没し、慕容宝が跡を継ぐと後燕は皇族の内紛で急速に弱体化。
6月、北魏は広寧・上谷(現在の河北省懐来県)を奪取
9月、并州(現在の山西省)を平定した。東方においては後燕の本拠地ともいえる冀州に侵攻して常山(現在の河北省石家荘市)を奪い、後燕の首都中山(現在の河北省定州市)や信都(現在の河北省冀州市)・?(現在の河南省臨?県)を除く地域も制圧した
397年 1月、信都を陥落させ、中山は後燕の内紛で慕容宝の弟慕容麟が自立していたのを奪う
398年 1月、?を平定して、後燕から黄河以北の地をほぼ奪って中原の支配者となった
2月、後燕より中山を攻撃されるが撃退。
7月、拓跋珪は平城(現在の山西省大同市)に遷都。
12月、皇帝として即位し道武帝となった。道武帝は慕容垂時代の後燕における漢人知識人の名臣を用いて国家体制や支配制度の整備に尽力し、これまでの五胡王朝が中原を支配するとそちらに遷都した例を破棄して平城にこだわったのはここを中心とした牧畜地帯に基盤を置いて中原の農耕地帯を支配する体制を取るためで、道武帝の時代に北魏の基礎は確立された。その後、北魏は後燕や分裂して成立した南燕に圧力をかけ、後燕滅亡後に成立した北燕に対しても圧力をかけた。また当時、北魏と同様に勢力を拡大していた後秦とも衝突した。
398年 中国の法顕が仏典を求めてインドに赴く。
399年 時代を反映した五斗米道の指導者孫恩による孫恩の乱が起きる。この反乱で東晋首都建康は危機的状況に陥るが、北府軍の劉牢之と劉裕により鎮圧された。この反乱で東晋皇帝の無力化が露呈し、以後は軍閥に皇帝が左右されるようになる。この反乱を契機として、桓温の遺児桓玄は孫恩軍鎮圧を名目に西府軍を動かして首都建康に迫った。司馬道子にはこれを撃退する力は無く、北府の劉牢之を動かして対抗しようとしたが、北府軍は西府軍に味方したため、建康は陥落して司馬道子は殺された。桓玄は首都に入城して政敵を排除すると、東晋皇帝安帝を廃して自ら皇帝に即位し、国号を楚として親子2代に渡る宿願を果たした。一方で桓玄は北府軍を圧迫して劉牢之を自殺に追い込んだため、北府軍の怒りを買った。劉牢之の死後、北府軍のリーダーとなった劉裕は挙兵して桓玄を破って首都を奪回、さらに荊州に逃れて再起を図った桓玄を再び破り、荊州から蜀に逃亡しようとした桓玄を殺害、廃帝となっていた安帝を復位させて滅亡していた東晋を再興させた。
400年 クチャの仏僧である鳩摩羅什が長安に来訪。
402年 5月、後秦軍により平陽が攻撃されたので、北魏は道武帝が親征して柴壁の戦いで後秦軍を撃破した。
403年 12月、東晋領の荊州に基盤を置く西府軍を握る桓玄が安帝を廃して帝位に即位し、楚を建国した。其れに対して、劉裕は東晋北府の劉牢之配下の参軍であったが、孫恩の乱鎮圧で功績を立てて台頭する。
404年 3月、桓玄により北府軍団は圧迫されて劉牢之は憤死し北府軍団は建威将軍に成った劉裕は反撃して最終的に蜀に逃れる桓玄を敗死させた。安帝を復位させ、車騎将軍として実権を握り、積極的に外征を行う。
405年 苻堅の皇太子だった苻宏は南下して東晋と対峙しており、これらの勢力が滅亡した後は前秦の残党をかき集めて東晋と戦いながら再興に尽力したが、東晋の劉裕に攻められて殺されて前秦再興は潰えた
407年 407年、当時の北魏には後秦を滅ぼすまでの力が無かったので和睦した。
409年 10月に次男の拓跋紹に殺害されたが、長男の拓跋嗣は拓跋紹を殺害して即位し、明元帝となった。明元帝は高車や柔然に攻撃をかけ、北燕、南燕、後秦、夏と対立した。しかしこの頃、江南の東晋では劉裕が政権を掌握して強大な軍事力を有するようになっていた。
410年 410年、南燕が、417年に後秦がいずれも劉裕により滅ぼされたため北魏は東晋、いわゆる江南との対立が鮮明になった。
2月、南燕を滅ぼし、南燕皇帝慕容超を処刑した。
411年 劉裕の留守を衝いて、孫恩の残党が水路から建康に迫って何無忌や劉毅の東晋軍を破ったため、劉裕は迅速に帰還して石頭において残党軍を破り、広東に逃れていた残党軍を殲滅した。
416年 北燕と夏と西秦と連携して交戦
後秦を攻めて洛陽を奪取。
417年 長安を攻め落として後秦を滅ぼした。ただ、建康の留守を任せていた参謀の劉穆之が急死したため、江南に不測の事態が起きる事を恐れた劉裕は建康に帰還し、奪った領土も大半が華北の異民族政権に奪取された。後秦滅亡
420年 劉裕(高祖武帝)は、劉裕は安帝を殺害し、新帝に弟の恭帝を擁立、恭帝から禅譲を受けて宋王朝を開き武帝となった。
421年 (宋・永初2年)- 倭王の讃、宋に朝貢し、宋の武帝から、除綬の詔うける。(おそらく安東将軍倭国王)(『宋書』倭国伝)
422年 貴族勢力との妥協のもと政治を行なった武帝崩御、少帝が第2代皇帝と成るが、遊興に耽って節度が乏しかったために宋は乱れ、滑台・虎牢などの領土が北魏に奪われた。
423年 11月、明元帝は死去した。明元帝の死後、長男の拓跋燾が即位し太武帝となった。この頃になると華北で北魏と軍事的に対抗できたのは夏だけであったため太武帝は高句麗や宋と頻繁な外交を展開した。
424年 徐羨之・傅亮・謝晦らによって少帝は廃位され、第3代皇帝には弟の文帝が擁立された。文帝は先帝を廃立した徐羨之ら3名を殺害し、名門貴族の王華・王曇首・殷景仁らを重用して政務を行なった。この文帝の30年の治世は元嘉の治と呼ばれて国政は安定した
424年 北朝北魏の第3代皇帝(在位423年 - 452年)・魏武の法難(廃仏)を実施する
425年(宋・元嘉2年)- 倭王の讃、司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』倭国伝)
425年 8月、夏の始祖始祖の赫連勃勃が死去。
426年 10月、太武帝は親征して夏の首都統万城を陥落させた。
428年 2月、赫連勃勃の跡を継いだ息子の赫連昌は上?に逃れるも北魏に捕らえられ、弟の赫連定が平涼で即位した。
430年 11月、北魏に追われてやはり上?に逃れた。
430年 文帝は前年から北魏軍が柔然を攻めたのを見て河南に北伐軍を差し向けた。当初は河南4鎮(洛陽・滑台・虎牢など)を奪取したが、再び北魏軍の反撃を受けて全て奪い返された。
431年 1月、宋の名将檀道済が滑台を再び奪い、さらに北魏軍を破って優位に戦況を進めたが、兵糧不足により撤退し、奪った領土も北魏に再度奪われた。この後、北魏の申し出で和睦した。その後、文帝は北魏と使者を交換して親善に務めて両国間は平和になり、国内では富国強兵が図られた。
6月、赫連定は吐谷渾に捕縛され、北魏の首都平城に連行されて処刑されて滅亡した。
436年 4月、内紛で弱体化していた北燕を滅ぼした。北涼は早くから北魏に従属し、婚姻関係を結ぶなどして密接な関係を維持していた。
3月に宋の名将檀道済が文帝により誅殺された。
北魏の太武帝が華北を統一、中国は南北朝時代となる。
439年 9月、太武帝自らの親征で北涼を滅ぼした。これが北魏による華北の統一といわれているが、実際にはまだ後仇池が残存していた。
442年 馮太后(文明皇后)(442年 - 490年) - 北朝北魏の文成帝の皇后生誕。父は秦州・雍州刺史馮朗(北燕の皇族)。母は王氏。14歳の時、父が殺害され太武帝の孫で第5代皇帝である文成帝の皇后となるが、帝は465年に若くして崩御した。文成帝の跡を継いだ息子の献文帝の代に、義母として皇太后として補佐にあたったが、献文帝が成長するにつれて対立が生じ、献文帝を脅迫して471年には息子の拓跋宏(孝文帝)に譲位させた。476年に献文帝を毒殺し、北魏の政権を完全に掌握した。太皇太后は抜群の政治手腕を見せた。同姓不婚・俸禄制・均田制・三長制・租調制など様々な政治改革を行ない、北魏の全盛期をもたらした。
献文帝・孝文帝で垂簾聴政を行い均田制や三長制を導入
後仇池の楊難当に攻められ反撃、北魏は華北を統一して南下の気配を示す。
の南方を脅かした林邑を討伐した。
後仇池を滅ぼし、北魏は前趙が成立してから約150年に渡る華北の分裂を収拾し、華北の統一政権を樹立した。
445年 445年、北魏の武将蓋呉が宋に降伏したが、北魏は直ちに鎮圧してこれ以降は両国間で小競り合いが発生。
446年 446年 - 北魏の太武帝が廃仏の詔を出す。
449年 449年、北魏が柔然を攻める。
450年 1月に文帝は国内の安定を背景にして貴族の賛同を得て北伐を行なうが、逆に北魏は太武帝の下で周辺諸国を併呑した軍事強国であったため、北魏軍50万の大軍の侵攻を建康の手前まで受けたこの時は太武帝の皇太子問題が再燃したため北魏軍は北に帰還したが、対北魏戦線の戦地と成った宋領などは侵略と略奪で荒廃し大量の物的・人的資源を失った。
453年 文帝は皇太子劉劭の謀反により殺害され、その劉劭も弟の劉駿に敗れて子供4人とともに晒し首とされて長江に遺棄され、劉駿が孝武帝として即位した。孝武帝も自身の兄弟や一族を次々と殺戮、中央集権を図ったが失敗。
460年 北魏で雲崗石窟の工事始まる。
464年 孝武帝が崩御すると、長男の劉子業が跡を継いだが、性格が凶暴・残忍で戴法興・柳元景・顔師伯ら重臣を殺したため、
 465年 寿寂之・姜産之により殺害された。新しい皇帝には文帝の11男明帝が擁立されたが、この明帝も残忍で孝武帝の子を16人も殺害した。またこの明帝の時代には北魏からの侵略が激しくなり、山東半島から淮北までの領域を完全に奪われた。明帝は寺院の建立や無謀な遠征を連年続けて濫費を繰り返し、宋の財政は悪化した。
 465年  第5代皇帝、文成帝若くして崩御。
472年 明帝が崩御すると、長男の劉昱が跡を継いだが、この時にも孝武帝の遺児12人が殺戮される悲劇が繰り返された。
477年 実力者の蕭道成の殺害を計画したため殺害された。新しい皇帝に実弟の順帝が擁立されたが、幼少の事もあり実権は蕭道成が握った。479年、順帝は蕭道成に禅譲し、蕭道成は斉王朝を開き、ここに宋は滅亡した
479年 479年 - 中国で南朝の宋に代わり斉が成立。
北魏の孝文帝が均田制を実施する。
494年 北魏が大同から洛陽に遷都する
ウイキ―ペディアより
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